アメリカの医療費、特に薬の価格は、多くの人が抱える大きな負担です。2025年現在、メディケアの薬価交渉プログラムが本格的に動き始め、これまでとは全く違う仕組みで薬の価格が決まり始めています。このプログラムは、2022年に成立した『インフレ抑制法』に基づき、連邦政府が初めて薬の価格を直接交渉できるようになるという画期的な変更です。それまで、メディケアは薬の価格を交渉する権限がなく、保険会社が個別にメーカーと交渉するしかありませんでした。その結果、同じ薬でも価格が地域や保険プランによって大きく異なり、患者の負担は重く、政府の支出も膨らんでいました。
交渉の対象はどこから?
この交渉プログラムの対象となる薬は、厳しく定められた条件を満たすものだけです。まず、ジェネリックやバイオシミラーが存在しない、単一の製造元による薬に限られます。さらに、小分子薬ならFDA承認から7年以上、バイオ薬なら11年以上経過している必要があります。つまり、新しい薬や特許が切れていない薬は対象外です。これは、医療革新を阻害しないようにするための配慮です。
2026年1月1日から適用される最初の10種類の薬には、エリクス(アピキサバン)、ジャーディアンス(エンパグリフロジン)、シャレント(リバロキサバン)など、年間数十億ドルの支出を生む高額薬が含まれています。例えば、エリクスだけでも2022年にはメディケアが63億ドルを支払っていました。これらの薬は、患者数が多く、代替薬が限られているため、交渉の効果が最も大きいと判断されたのです。
どのように価格が決まるのか?
交渉のプロセスは、法律で厳密に定められています。2024年2月1日、メディケア・メディケイドサービスセンター(CMS)は、各製薬メーカーに最初の価格提案を送りました。この提案は、薬の臨床的価値、他の治療法との比較、使用実績、そして市場価格を基に算出されました。メーカーは30日以内に反提案を提出しなければならず、その後、CMSとメーカーの間で最大3回の対面交渉が行われました。
交渉の結果、最終的な価格は「最大公正価格(MFP)」として決定されます。この価格は、二つの基準のうち低い方を採用します。一つは、保険プランが過去に支払った実際の価格(リベートや割引を含む)の加重平均。もう一つは、製品の平均製造価格(non-FAMP)の一定割合です。この仕組みにより、メーカーが過剰な利益を上げるのを防ぎ、患者が支払う価格を引き下げることを目的としています。
2024年8月に発表された結果では、交渉後の価格は従来価格の38%から79%まで下がりました。例えば、ある薬は1錠あたり12ドルから3ドルに、別の薬は1カプセル150ドルから35ドルにまで下がったのです。これは、患者の自己負担額が大きく減ることを意味します。
患者にとって何が変わる?
最も直接的な恩恵は、薬の自己負担額の減少です。特に、メディケアDの「ドーナツホール(カバーの隙間)」と呼ばれる段階にいる患者にとって、価格下落は大きな救いです。この段階では、患者が薬の費用を全額負担する必要があり、高額薬を服用していると数万ドルの支出になることもありました。交渉後、薬価が半分以下になれば、その負担も同様に減ります。
しかし、すべての患者が同じように恩恵を受けるわけではありません。カタストロフィック(災害)段階にいる患者は、自己負担が一定額で上限が決まっているため、薬価が下がっても負担額が大きく変わらない場合があります。また、一部の薬は、保険プランの処方箋リスト(フォーミュラリー)から外される可能性もあります。製薬会社が交渉に応じず、価格が妥協できない場合、保険会社はその薬を処方箋リストから削除する可能性があるからです。これにより、特定の患者がこれまで使っていた薬を使えなくなるリスクも生じます。
医療提供者への影響
医師や病院にも大きな変化が起きています。2028年から、メディケアB(診療中に投与される薬)も交渉対象になります。これまで、医師が使用する薬は「平均販売価格(ASP)+6%」で報酬が支払われていました。つまり、薬の価格が高いほど、医師の収入も増える仕組みでした。しかし、交渉後は、報酬が「最大公正価格(MFP)+6%」に変わります。
この変更により、医師の収益が減少する懸念があります。アメリカ医師会の内部モデルでは、最初の数種類の薬について、医療機関の年間収益が12億ドル減る可能性があると試算されています。そのため、一部のクリニックでは、高価な薬の使用を控え、代替薬に切り替える動きが広がっています。これは、治療の選択肢を狭める可能性があり、患者と医師の間で話し合いがさらに重要になっています。
保険会社と製薬業界の反応
民間の保険会社は、メディケアの交渉結果に注目しています。なぜなら、製薬会社がメディケアに提示した価格を、民間保険の価格交渉の基準として使う可能性が高いからです。スタンフォード大学の研究では、この「スパイオーバー効果」により、民間保険が10年間で200億~250億ドルの節約ができると予測しています。実際、すでにいくつかの保険会社は、メディケアの交渉価格を参考に、自社の契約価格を引き下げ始めています。
一方、製薬業界は強い反発を示しています。製薬研究開発協会(PhRMA)は、この交渉プログラムが医薬品の研究開発投資を10年間で1120億ドル削減すると警告しました。しかし、米国予算局はこの試算を「大幅に誇張されている」と否定しています。実際、2024年8月に、4社の製薬会社がこのプログラムの合憲性をめぐって裁判を起こしましたが、連邦地裁はすべての訴えを却下しました。今後、上訴が続く可能性はありますが、現時点ではプログラムの実施が確実になっています。
今後はどうなる?
このプログラムは、徐々に拡大しています。2027年には15種類、2028年にはさらに15種類、2029年以降は毎年20種類の薬が交渉対象になります。2028年からはメディケアBの薬も加わり、医療現場全体に影響が広がります。さらに、2026年以降、FDA承認から5年で交渉対象になるよう法改正が検討されています。もし実現すれば、交渉対象薬の数は年間で47%増えると推定されています。
現在、アメリカでは1432の小分子薬が2013年から2023年に承認されていますが、そのうち7年後にジェネリックやバイオシミラーが登場していないのはわずか26.7%です。つまり、交渉の対象となる薬は、今後も徐々に増えていくのです。連邦取引委員会(FTC)も、製薬会社がジェネリックの登場を遅らせる「製品ホッピング」などの行為を厳しく取り締まっています。これにより、交渉対象となる薬の数はさらに増える可能性があります。
あなたが今できること
この変化は、医療費の負担を減らす大きなチャンスです。もし、あなたや家族がメディケアDに加入していて、高額薬を服用しているなら、2025年秋から始まる保険プランの見直し時期に、新しい価格が反映されたプランを必ず確認してください。薬の自己負担が下がっている可能性があります。
また、医師と相談する際には、「この薬はメディケアの交渉対象になっていますか?」と聞いてみてください。代替薬がある場合、価格が大幅に安くなる可能性があります。医療費の透明性が高まっている今、患者自身が情報を知り、積極的に選択することが、より良い治療と負担軽減につながります。
メディケアの薬価交渉はいつから始まったの?
2022年8月に成立した『インフレ抑制法』に基づき、2026年1月1日から最初の10種類の薬について価格交渉が実施されました。交渉自体は2024年2月から8月にかけて行われ、2024年8月16日に最終価格が公表されました。
どの薬が交渉対象になるの?
ジェネリックやバイオシミラーがなく、FDA承認から7年以上(小分子薬)または11年以上(バイオ薬)経過した、高額で使用量の多い単一製造元の薬が対象です。2026年はエリクス、ジャーディアンス、シャレントなどが含まれ、2027年にはファルキガ、ステラーラなど15種類が追加されます。
薬の価格はどのくらい下がるの?
最初の10種類の薬では、従来価格の38%から79%の大幅な値下げが実現しました。例えば、ある薬は1錠あたり12ドルから3ドルに、別の薬は1カプセル150ドルから35ドルに下がりました。これは患者の自己負担額の大幅な軽減を意味します。
民間保険にも影響はあるの?
はい、影響があります。製薬会社がメディケアに提示した価格を、民間保険が交渉の基準として使うケースが増えています。スタンフォード大学の予測では、民間保険が10年間で200億~250億ドルの節約が見込まれています。すでに一部の保険会社は、メディケアの価格を参考に自社の契約価格を引き下げ始めています。
薬が使えなくなることはある?
はい、可能性があります。製薬会社が交渉に応じず、保険プランがその薬を処方箋リストから外す場合、患者はその薬を使えなくなることがあります。特に、代替薬が限られている患者にとっては大きな問題です。医師と相談し、代替薬の有無を確認することが重要です。
2026年以降、さらに薬が交渉対象になるの?
はい、毎年増えていきます。2027年には15種類、2028年にはさらに15種類、2029年以降は毎年20種類が交渉対象になります。2028年からは、病院で注射する薬(メディケアB)も含まれます。将来的には、承認から5年で対象になる可能性もあり、対象薬はさらに増える見込みです。